取り急ぎ、今日の写真の一部を。
石崎隆之騎手の引退式。
「幸せな騎手人生でした」(石崎騎手)。
ここでは大きいサイズの写真がのせられないので、私のツイッターに大きいサイズはのせますね。
またお伝えします。
2019年3月31日、南関のひとつの時代が終わるんですね。。。
取り急ぎ、今日の写真の一部を。
石崎隆之騎手の引退式。
「幸せな騎手人生でした」(石崎騎手)。
ここでは大きいサイズの写真がのせられないので、私のツイッターに大きいサイズはのせますね。
またお伝えします。
2019年3月31日、南関のひとつの時代が終わるんですね。。。
石崎隆之騎手の愛息・石崎駿騎手。早いもので、駿騎手も35歳です。
駿騎手が子供の頃から、石崎家は石崎騎手中心の生活だったそうです。
「レースや調教で忙しくて毎日家にいなかったし、ナイターになると睡眠時間の関係もあるので、うるさくしないように、邪魔をしないように、いつも父親中心の生活でした。ちょっとでも騒ぐと、すぐに母親に怒られました」と駿騎手。
このエピソードを聞いて、石崎騎手がトップにい続けた日々には、家族の力と協力があってこそだったんだなぁと改めて痛感します。
石崎騎手は口数が多い方ではありません。息子に対してもあまりしゃべらないそうですが、騎乗についてはどんなアドバイスをもらってきたのでしょうか。
「『汚く乗るな、きれいに乗れ』ということだけしか言われたことはないです。細かい乗り方は自分で考えることだし、言葉では教えてもらっていません。
父親のレースは子供の頃からずっと見てきました。とにかくうまい人なので、勉強になることはたくさんありました。仕掛けのタイミングが一番かな。きっちりと慌てることもないし、レースをよくわかっている人でした。どうやったら勝てるのか、一番知っているんじゃないかなと思います」。
駿騎手が選ぶ、石崎隆之騎手のベストレースは……。
「アブクマポーロの東海ウインターステークス(優勝)とマルノマンハッタンの桜花賞(優勝)です。この2つのレースは他の人なら勝っていないだろうなというレースだったと思います。
東海ウインターステークスは、あそこまで我慢できたのは馬を信じていたんだろうなぁとか。どれだけの脚を使えるかもわかっているからこそだし。
あの時は中学生くらいだったと思うのですが、競馬を見るのが増えてどのレースも見るようになってきて、ちょっとわかり始めた頃だったので、それだけに自分の中では衝撃が大きかったです」。
3月31日付で石崎隆之騎手は引退します。
「馬のこととか何もやることがなくなったら面倒くさくなりそうです。ちょっと前から、だいぶ面倒くさくはなっているんですが(笑)。
自分が生まれる前から父親は騎手だったので、騎手の姿しか知らないし、騎手でいるのが当たり前でした。でも、去年のいつ頃だったかな?『たぶん免許は更新しないから』って言われて、それを聞いた時は、『あ、そう』って。
最後の方はいつ辞めるのかな?って思っていたので驚きも全くなかったし、寂しさも全然ないですよ。騎手として、もうこれ以上何を見せてくれるのって思うし、やり尽くしただろうから。今はご苦労様とありがとうございますって、感謝の気持ちです」(駿騎手)。
先ほども書かせて頂いたように、石崎隆之騎手は出川己代造厩舎の佐藤賢二騎手と楠新二騎手が兄弟子。
楠騎手は4年ほど騎手生活を続けますが、その後は厩務員へ。
私たちの世代は厩務員としての楠厩務員の方が馴染み深く、アブクマポーロやベルモントアクター、ベルモントストームなど数多くの名馬を育ててきたことはあまりにも有名です。鞍上は石崎騎手。
毎日レースに騎乗して忙しかった石崎騎手に代わり、楠厩務員は石崎駿騎手の父親代わりとしても接してきました。
「最初の頃を考えると、隆之がこんな風に6000勝までするような騎手になるとは思わなかったけど、真面目で研究熱心だった。本人が努力をしてきたし、そこから馬にも巡り合った。一番の思い出?ずっと家族付き合いをしてきたことかな。
本当は最後に隆之に乗って欲しくてこの船橋開催は乗れないのか?って聞いたんだけど、『もう乗れないよ』って。
今はお疲れ様っていう言葉しかないね。ここまでよく頑張った。でも、俺はまだまだ頑張るよ(笑)」(楠厩務員@66歳)。
2016年9月30日の船橋競馬場で、久しぶりに石崎騎手と楠厩務員のコンビが見られました。これがタッグを組んだ最後のレースになったようです。。。アナザフォー(船橋・佐藤裕厩舎)↓
前はこういう姿をいつも見てきましたが、もう見られないと思うと、やはり寂しいです。。。
田中力騎手は出川己代造厩舎からデビュー予定でしたが、己代造調教師が亡くなられたことで、息子の克己厩舎からデビュー。
その関係から、石崎隆之騎手とは非常に深いお付き合いをしてきたそうです。
まぁ、田中騎手の勝負服の色を見れば、わかりますね(^^)
「石崎さんはあまりにも上の人すぎて、すごい人で、言葉には言い表しにくいですが、師匠でもあり、競馬場のお父さんのような存在です。昔からご飯を食べさせて頂いたり、乗り方も教えて頂きました。
勝負服は、尊敬していた石崎さんの勝負服から襷を頂きたいなと思って、でもそのままではなく、襷の逆バージョンを申請したんですが通らなかったので、色は頂いて、襷の代わりに袖を3本入れました。
いざ引退されるというのは寂しい気持ちもありますが、怪我をする前の引退ですから。石崎さんとはこれからも会えるので。
長い間、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました」(田中騎手)。
先ほども書かせて頂いたように、石崎隆之騎手は出川己代造厩舎からデビュー。出川克己調教師のお父様です。
克己調教師がお父様の厩舎で厩務員になったのは28歳の時。出会いと別れを繰り返すこの世界。担当馬だったハチノリユウエーが、レース中に骨折を発症し、亡くなってしまったそうです。
あまりにも悲しい出来事に耐え切れず、仕事にも出ていけないほど泣き続け、この世界から離れようとも……。そんな時に、石崎騎手からこう言われたそうです。
「もっと勉強をして事故を防ぐ競馬をさせたいと思わないと、馬がかわいそうだろう。一生懸命走る馬たちを残して自分だけ逃げるのか?」
この出来事がきっかけとなり、調教師を目指すことになったそうです。
そして、アブクマポーロやベルモントアクター、ラヴァリーフリッグなど、石崎騎手とともに数多くの名馬たちとビッグレースを勝っていきました。
「石崎さんのあの言葉がなければ、この世界にはいなかったので大恩人です。いろんなことを教えて頂いて、たくさん勝たせて頂きました。みんな年を取りましたね(苦笑)。石崎さん、本当にありがとうございました」(克己調教師)。
石崎隆之騎手と佐藤賢二調教師と言えば、南関東最初で最後の史上初の無敗の4冠馬に輝いたトーシンブリザード。そして、石崎騎手が最後の重賞勝ちを収めることになるセレンとのコンビなどでもお馴染みでした。
石崎騎手は船橋の名門・出川己代造厩舎から1973年7月11日にデビューしました。
その時の生え抜きの兄弟子が佐藤賢二騎手。
(佐藤賢二騎手と石崎騎手の間には、のちにアブクマポーロの厩務員となる楠新二騎手がいたそうです)。
佐藤賢二騎手、楠新二騎手、石崎隆之騎手はあんちゃんこの頃からのお付き合い。
最初の頃は3人で一緒の部屋で生活をしていたそうです。
今となれば、かなり濃いですね(^^;
「隆之がこれほどの騎手になるとは当時は思わなかったけど、ものすごく真面目だったからね、俺らと違って(笑)。一番の思い出?新二と隆之と3人で一緒の部屋で生活をして、3人ともマメだったから寝ていたベッドをよく移動したりして模様替えなんかをしたことかな(笑)。
引退は本人が決めたことだから、長い間ご苦労さんだね。お互い体は大事にしていこう」(佐藤調教師)。